美容師小説

美容師小説

-­第36話-­【1953年 パリ】 『Less is more』

 ちいさなハサミだった。

 パリに戻って手に入れたプロ用のシザーズ。フランスの美容商材メーカーが薦めたのは驚くほどちいさなハサミだった。

 刃の部分は4.5インチ。指穴に指を差して動かしてみると、なんとも頼りない感じがした。

 ロンドンで使っていたハサミは何インチだっただろう。たしか刃渡り6インチだ。

 そういえばあの天井に突き刺さったハサミは、その後どうなっただろう。

 

 考えないようにした。ロンドンのことは考えない。『デュマス』のことも考えない。ボスのフランク・ブラスチェク……。あぁ、怒ってるだろうなぁ……。『デュマス』にはもう、戻れないよなぁ……。

 次々と思い出してしまう。

 ヴィダルは集中しようと試みた。この手にあるハサミと、メルのヘアスタイルに。

 

 パリの街を歩きながら、ヴィダルはとなりを歩くメルの髪を何度も見た。

 短い。やはり工夫のしようがなさそうに見える。

 しかし、ヴィダルのなかでは久しぶりに意欲が高まりつつあった。あのシルヴィオのもとで、コンテストに熱中していたころの感覚が戻ってきている。そのきっかけをつくったのは、メルの一言だった。

 

 「Less is more」

 

 建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉だという。

 その言葉を聞いたとき、ヴィダルのなかに衝撃が走った。

 『Less is more』

 足りないことが豊かである。ヴィダルには一瞬にして、その意味が直観できた。

 たとえばデザインを徹底的にシンプルにする。装飾を削っていけばいくほど、それは逆に豊かな表現になる。

 

 ヴィダルはローエの作品を見たことはなかった。だが、コルビュジエと並び称される巨匠の言葉だ。きっとあの『サヴォア邸』と同じような、独創的な建物をつくっているのだろう。

 

 「ローエの作品、見たい?」

 メルは聞いた。

 「もちろん」

 ヴィダルは答えた。

 「じゃあ、大学に来る?」

 こうしてヴィダルは、入手したハサミを持ったまま、メルの通う大学に向かったのであった。

 

 

 国立パリ建築大学ラ・ヴィレット校は、パリの北端にあった。メルはヴィダルを連れて学内に入ると、まっすぐに図書館へと向かった。

 

 ミース・ファン・デル・ローエの作品集を、メルが借りてきた。パラパラとページを繰って、なにかを探している。

 「あった」

 ほどなくして、メルが言った。

 「これがバルセロナ・パビリオンよ」

 

 不思議な建物だった。直線。平面。単純。幾何学的。コルビュジエの『サヴォア邸』よりもさらにシンプルで、開放的に見える。だが、一方で石の壁やガラスの壁が交互に配置され、芸術的で美しい。

 メルの解説によると、それは1929年にバルセロナで開催された万国博覧会に出展したドイツのパビリオンだった。

 「当時はまだ、ナチス・ドイツではなかった。でも1929年のドイツ国会には、すでに12名のナチ党国会議員がいたわ」

 「ローエって、ドイツ人なの?」

 「えぇ。そうよ。でも今はアメリカにいるわ。亡命してイリノイ工科大学建築学科の主任教授になったの。1938年のことよ」

 「第二次世界大戦開始の前年のことか」

 「ローエはアメリカで次々と高層ビルを建てているの。でも私はローエの住宅が好き。ほら、これを見て。ファンズワース邸よ」

 再び、ヴィダルを衝撃が襲った。『サヴォア邸』同様、木立のなかの芝生の上に白い家が浮いている。さらに、ガラスの壁。部屋を通過して向こう側の景色まで見えている。つまりこの家は四方が、ガラスの壁で囲まれているのだ。

 驚くほどの開放感。もし実物を見ることができたら、その室内で陽光が自由に躍っていることだろう。それほど明るくて、端正で、美しい建物だった。

 「すごいね」

 ヴィダルが言った。

 「ね。すごいでしょ」

 メルは少し自慢げに言った。

 「構造はシンプルで合理的。だけどこれだけ美しく見えるのは細部にこだわっているからなの。かたちだけでなく、細部も洗練する。それがローエの建築」

 「神は細部に宿る……」

 「あら。よく知ってるわね。ローエもたびたびその言葉を口にしているわ」

 「それにしても美しい」

 「まさにLess is moreね」

 

 ヴィダルの頭はフル回転を始めていた。メルの髪。短い髪。シンプルなかたちで、いかに美しくできるか。

 

 「ローエは、バウハウス(※)の校長だった」

 メルがぽつりと言った。

 「バウハウスは1933年に閉鎖されたの。ナチスがつぶしたのよ。その最後の校長がローエだった」

 「建築家であり、教育者でもあったということ?」

 「教育は、だれよりも重視していた。今もそうよ。イリノイ工科大学で、学生たちに建築を教えている」

 「どんなことを教えているの? 設計? デザイン?」

 「ローエはね、デザインという言葉が嫌いなの」

 「えっ。だって建築はデザインじゃないの?」

 「もちろんデザインよ。だけどローエはソリューションという言葉を使う。建築はデザインではなくてソリューションでなくてはならない、って」

 「solution……」<問題解決>

 

 頭のなかに光が灯った。

 [Less is more]

 [Solution]

 ヴィダルのなかにものさしができていく。あたらしいヘアスタイルを考える際に、基準となる考え方だ。

 「メル、きみの話は美容について語っているように聞こえるよ。建築の話には、ぼくにとってたくさんの示唆が含まれている」

 「あら。それは光栄だわ。もしあなたの役に立つとすれば、私はうれしい」

 「ヘアスタイルをシンプルにしたい。シンプルで幾何学的で、しかも美しい。そんなイメージ」

 「そうよ。そうこなくっちゃ。あたらしい時代の、あたらしいヘアスタイルよ」

 「うん。ようやく考えるきっかけが見えてきたような気がするよ」

 「じゃあ、ついでにもうひとつ。建築はソリューションだと最初に言ったのは、コルビュジエなの。コルビュジエはこうも言ったのよ。建築は因習の中で窒息している」

 「まさしく」とヴィダルは言った。

 「ヘアスタイルは因習の中で窒息している!」

 

 

 「で、いつ私の髪を切ってくれるの?」

 「うん。もう少し時間をくれないか。次のお休みはいつ?」

 「今度の日曜日」

 「カットはその日にしよう。あと5日ある。その間、ぼくはここに通っていいかな。この図書館で、いろいろ勉強したいんだ」

 「わかったわ。じゃあこうしましょう。学生証がないと本は借りられないし、閲覧もできない。だから毎朝、あなたは私と一緒に通学する。あなたが読みたい本を、私が借りる。それであなたは夕方までここで勉強するのよ」

 「よし、それでいこう」

 こうして翌日から、ヴィダルは建築大学の図書館に通うこととなった。

 

 大学の図書館は知識の宝庫だった。ヴィダルが最初に学んだのはバウハウスについて。つづいてローエ。コルビュジエ。フランク・ロイド・ライト。

 ローエが『バルセロナ・パビリオン』をつくったのは、アントニ・ガウディが路面電車に轢かれて亡くなった、わずか3年後のことだった。アール・ヌーヴォー建築の聖地バルセロナ。つまりガウディの本拠地に、モダニズムの旗手が殴り込みをかけたようなものだった。

 またローエは「だれにでもできる建築」をテーマにしていた。だからこそ教育に力を入れたのだ。

 

 [だれにでもできるヘアスタイル]

 [そのための教育]

 ヴィダルはあらたな示唆をインプットした。

 

 アートの本を見た。ファッション史もあった。写真集は膨大な数だ。だが、ヘアスタイルに関する本は一冊もなかった。ただの一冊も、だ。つまり建築やアート、写真やファッションと比べて、ヘアスタイルは学問の領域として認められていないということだ。

 ヴィダルはくやしかった。そのくやしさは、すぐに闘志へと変わっていく。

 [よし。いつかぼくがその流れを変えてやる。ファッションの一部でしかないヘアスタイルを、単独のアートに変えてやる]

 

 

 5日間はあっという間に過ぎた。日曜日。ヴィダルは朝からヘアカットの準備を始めた。

 バスルームに新聞紙を敷きつめた。それからダイニングのイスを1脚持って来た。ハサミと一緒に手に入れた霧吹きに水を入れた。新聞紙を一枚広げてその真ん中に穴を空けた。そしてあの4.5インチのハサミ。コーム(櫛)。よし、準備オッケーだ。

 

 ヴィダルはメルを呼んだ。イスに座らせ、眼鏡をはずし、頭から新聞紙をかぶせる。空けた穴からメルの頭を出す。これでカットした髪の毛は、メルの身体にはかからない。

 「さあ、始めるよ」

 そう言って、ヴィダルはメルの頭を触り始めた。まずは骨格の確認だ。つづいて毛流の方向を確認。それから霧吹きでメルの髪を濡らした。

 

 最初にハサミを入れたのは後頭部。メルが自分で切ったという髪は、毛先が揃っていなかった。まずは短くなりすぎないように、慎重にハサミを入れていく。コームで髪を引き出し、毛先を揃えていく。

 4.5インチのハサミは、意外に使いやすかった。とくに細かい作業には抜群の機能性を発揮する。集中してカットするうちに、ヴィダルにはヘアスタイルが見えてきた。メルの短い髪が、さらに短くなっていく。後頭部は大胆に短く。頭頂部から降りていく髪は、まっすぐに。前髪は分けるのではなく、揃えてまっすぐにカット。

 

 メルはじっと目を閉じていた。バスルームに響くのはハサミの音と、ヴィダルの息づかい。

 

 気がつくと3時間が過ぎていた。メルは一言もしゃべることなく、ただ目を閉じてじっとしていた。

 「ちょっと休憩しよう」

 ヴィダルは言った。

 「ふぅ」

 メルは息を吐き出した。

 「休憩が終わったら、もう少し、いいかな」

 「いいわよ。お気の済むまで付き合うわ」

 そう言ってメルは新聞紙を慎重に脱いで眼鏡をかけ、トイレへ向かった。

 

 バスタブのへりに腰をかけて、ヴィダルはハサミを見つめていた。このちいさなハサミ。これはまさに革命的だ。どんなに細かなカットも、自由自在にできる。極端にいえば髪の毛1本ずつをカットすることだって可能なのだ。

 メルが戻ってきた。手にはフランスパンと空のワイングラスが2つ。

 「すごいわ」

 大きな目をきらきらさせながらメルは言った。

 「鏡、見たの?」

 「うん」

 「どう? 気に入った?」

 「あなた、すごいわ」

 そう言い残してメルは、再びバスルームを後にした。

 

 昨夜の飲み残しの赤ワイン。そのボトルを手に戻ってくると、グラスに注いでヴィダルに渡した。

 「乾杯!」

 そう言ってメルは、グラスを重ねた。

 「いや、まだ完成じゃないんだ」

 「これ以上、なにをするの?」

 「細部にたくさんやり残したところがある」

 「神は細部に宿る」< God is in the details>

 「それだ」

 「わかったわ」

 ヴィダルとメルはパンをかじり、ワインを飲んだ。カットを再開したヴィダルは、それからまた2時間ほどハサミを動かしつづけた。

 

 気がつくと、メルの頬を涙が流れていた。ヴィダルは驚いて、聞いた。

 「どうしたの?」

 「ううん、なんでもないの。気にしないで」

 

 

 翌朝。ヴィダルが目を覚ますと、となりにメルはいなかった。テーブルの上には、あの方眼のスケッチブック。そこに伝言が書かれていた。

 

 

 ヴィダルへ

 ステキなヘアスタイルをありがとう。大学に行くのがこんなに楽しみなのは久しぶりです。友だちに会うのも楽しみ。みんなこのヘアスタイルをどう褒めてくれるかと思うと、もう今からわくわくしてる。

 あなたはすばらしい美容師だと思います。このセンスと技術を、女性たちのためにもっともっと磨いてください。そして一人でも多くの女性たちを、解放してあげてください。

 あなたはいつかロンドンに戻ります。きっと戻ります。いや戻らなくてはなりません。

 そこでひとつ、お願いがあるのです。この部屋を去るのは私がいないときにしてください。私が大学に行っている間に、消えてください。

 

 さようなら。

 ありがとう。

 メル

 

 

 

 

 

 

 しばらくの間、ヴィダルは動けなかった。伝言に視線を落としたまま、動かなかった。

 たしかに、ぼくはロンドンに帰るのだろう。だけどそれがいつなのか、考えたことがなかった。いや、考えないようにしていたのだ。

 

 ヴィダルはゆっくりと腰を上げると、自分の荷物をまとめ始めた。

 部屋を出るとき、ヴィダルもメルのスケッチブックに伝言を書いた。

 

 

 メル

 ありがとう。

 ぼくはいつか必ずアメリカに行く。著名な美容師になって、アメリカへ行く。アメリカの女性を解放するために。

 そのとき、君は著名な建築家としてぼくのクライアントのひとりになってくれ。楽しみにしているよ。

 ありがとう、メル。

 君はぼくの恩人だ。

 ありがとう。

 今度はニューヨークで会おう。

 

 ヴィダル

 

 

 ヴィダルはその日のうちにロンドンに戻った。翌朝、『デュマス』に電話をかける。ボスのフランクは「すぐに来い」とだけ言って、電話を切った。

 こっぴどく怒られた。ものすごい剣幕だった。奥の事務所ではなく、フロアの真ん中で怒られた。

 「おまえには責任感というものがないのか」

 「お客さまのことをどう考えているんだ」

 おっしゃるとおり。反論なんかできなかった。しかしひとしきり怒鳴ると、フランクは静かに言った。

 「さぁ、仕事だ」

 

 それから数カ月、ヴィダルは『デュマス』で仕事をした。パリで手に入れたハサミは、積極的に使った。しかしパリで試したメルのヘアスタイルを、お客さんに勧めることはなかった。

 『デュマス』のお客さんは、保守的だった。ヴィダルは女性たちの髪を巻き、逆毛を立ててスプレーした。そんな日々がつづくうちに、再びヴィダルのなかからこころの声が響き始めた。

 [ヴィダル、そろそろ変化が必要だ]

 

 

 フランクに何度も事情を説明し、なんとか許しを得た。ヴィダルが向かったのは『ハウス・オブ・レイモンド』。

 

 あれは16歳のころだった。イーストエンドの『アドルフ・コーエン』サロンを辞めたヴィダルは、ウエストエンドの有名店『ハウス・オブ・レイモンド』の扉を叩いた。しかしそのとき、ミスター・レイモンドとは会えなかった。受付の女性に拒否されたのだ。理由は「下町訛りの英語」だった。(第7話参照)

 

 あれから9年。ヴィダルは25歳になっていた。メイフェアの『デュマス』で働くことで、ウエストエンドの英語も身に付いている。美容師の経験も積んでいる。さらにコンテストの受賞歴。

 きちんとスーツを着こなしたヴィダルは、堂々と『ハウス・オブ・レイモンド』の扉を開けた。

 

 

つづく

 

 

※【バウハウス】bauhaus

1919年、ドイツのワイマールに設立された学校。「bauhaus」とは、ドイツ語で「建築の家」という意味。だが、学ぶのは建築だけでなく、工芸・絵画・写真・デザインなどのアートへと拡がる総合芸術。ナチスの台頭により、1925年にデッサウに移転。1933年に閉校に追い込まれた。わずか14年間のその活動は、しかし現代アートに多大な影響を与え、その名は世界に轟いた。1996年になって、ドイツは『バウハウス大学』を設立。建築、土木工学、アート&デザイン、メディアを学ぶ国立総合芸術大学となり、「バウハウス」の名前が復活した。

 

 

 


 

<第37話の予告>

 

『ハウス・オブ・レイモンド』で働き始めたヴィダルは、すぐに頭角をあらわします。だが、あることがきっかけでミスター・レイモンドと袂を分かつことに。ヴィダルの次のステップは、ただひとつ。自分の名前を冠したサロンを、つくることでした。

 


 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

 

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