美容師小説

美容師小説

-­第41話-­【1955〜57年 ロンドン】 そしてふたりは恋に落ちた

 レセプションの周囲を、エレインの心地よい声が満たしていた。一方のヴィダルは、お客が座る椅子の周りを踊るように動きながらハサミをふるう。

 ヘアカットが終わり、集中がふと途切れた瞬間、ヴィダルのなかにエレインのやわらかな声が浸みわたってくる。

 

 ヴィダルは27歳になっていた。サロンをオープンして約1年。

 [あと10年は仕事に集中しよう。10年で、ヨーロッパやアメリカでも活躍する国際的美容師になるんだ]

 そう決めていた。そのために今はひとりで生きていく。自由に生きていく。10年間は、やりたいことだけを見つめていく。

 

 ところがある日、ヴィダルは気づいてしまった。エレインに惹かれている自分に。

 気づいた瞬間から、“意識”が始まった。エレインの声、姿、笑顔、指先、ふくらはぎ。すべてが美しかった。

 ヴィダルは、エレインへの想いを抑えられなかった。

 いや、努力はした。振り払おうとした。こころのなかから追い出そうと試みた。だけど一度も成功しなかった。

 

 ディナーに誘った。何度も誘った。エレインはそのたびにやさしく応じてくれた。やがてヴィダルはエレインを母に紹介した。継父のネイサンGにも、弟のアイヴァーにも紹介する。一方、エレインも自分の兄にヴィダルを紹介した。

 

 性格のちがいは明らかだった。ヴィダルは野心家で、冒険家で、上昇志向。一方のエレインは控えめで、穏やかで、週末のお気に入りは母親の家で静かに過ごすこと。

 しかしふたりは恋に落ちた。落ちてしまった。

 

 

 1956年、ヴィダルはエレインと結婚した。その直後、ヴィダルはヨーロッパツアーに招待される。リスボン、マドリード、ローマ、パリ、ブリュッセル、コペンハーゲン、ストックホルム、イスタンブール。この8都市を、エレインとともに3週間かけて訪問。各国のトップクラスの美容師たちと交流するというツアーだった。

 

 ヴィダルの名前は英国を飛び出し、ヨーロッパ各地に浸透しつつあった。広報を担ったのは、アーティストたち。ヴィダルの顧客である歌手や、女優、そしてミュージシャンだった。

 ヴィダルはアーティストのヘアスタイルを変えた。斬新なヘアスタイルに変えた。印象が激変したアーティストたちは、インタヴューでヘアスタイルについて聞かれるたびに答えるのだった。

 「Vidal Sassoon」

 

 一方、ヨーロッパツアーを企画した美容メーカーは、次のようなキャッチコピーで美容師たちを集めた。

 

 “ロンドンからクレイジーな美容師がやってくる”

 

 ヨーロッパの美容師たちは興味津々だ。その目の前で、ヴィダルはモデルの髪をカットした。ちいさなハサミでカットした。パーマはかけず、逆毛も立てず、スプレーも使わない。美しく切りそろえられた髪。少女のボブより短い髪。歩くと揺れて、止まると収まる髪。

 

 ヴィダル夫妻は各地で歓待を受けた。エレインは、行く先々でヴィダルのパートナーとしての役割を完ぺきにこなした。パーティーにはだれよりも優雅に登場し、笑顔をふりまき、その声と美貌と会話のちからで居合わせたファッション関係者たちを魅了した。

 しかしホテルの部屋に戻ると、エレインはひどく疲れた表情になった。その落差が、ヴィダルのこころのなかにちいさな不安を芽生えさせた。

 

 

 ロンドンに戻ると、サロンは相変わらず活況を呈していた。スタッフが育ち、みなヴィダルの手法やルールを徹底して守っている。700スクエア・フィート(※)のスペースに、スタイリストが6人、アシスタントが8人もいた。その他にも多くの美容師が、ヴィダルとともに働くことを希望していた。

 一方、女性たちもヴィダルのサロンをめざした。サロンはいつも満員の状態で、入れないお客がボンド・ストリートにあふれた。

 ヴィダルは決断を迫られていた。

 

 「もっと大きなスペースが必要なんだ。遅くとも1年以内には、今の2倍以上のスペースが必要になる」

 ヴィダルはリラにそう報告した。

 

 リラは、サロンの生みの親だ。独立するヴィダルのために、夫とその兄を紹介。開店に向けた出資を促してくれたのだった。

 今回もリラは快くミーティングをセットしてくれた。

 

 

 「話はリラから聞いたよ」

 ミーティングの席で、まずリラの“夫”が口を開いた。

 「で、広いサロンをまたロンドンに出すのかね」

 「はい。できれば同じボンド・ストリートに出したいと思ってます」

 “夫”の表情が曇った。

 「ぼくはもっと地方に目を向けるべきだと思うけどな」

 「地方って、どこですか」

 「もっと田舎の町さ」

 「どうして田舎に」

 「ロンドンではこれ以上、無理だろう」

 リラの“義兄”が会話に参入してくる。

 「ロンドン発のサロンという触れ込みで、田舎の街を制していく。それが妥当なんじゃないか」

 ヴィダルは、あ然とした。

 「ごめんなさい。ちょっと意味がわからないんですが。ぼくはまずロンドンを制します。それからヨーロッパ、アメリカへと進出するんです」

 “義兄”は、苦笑しながら言った。

 「最初のサロンが成功していることはよく知ってるよ。だけどそれは狭いからさ。狭いから客があふれて、成功しているように見えるんだ。しかも君は髪をセットすることを拒否しているらしいじゃないか。断って、客を減らしているとか。美容師は、お客が求めるスタイルをつくるのが仕事じゃないのかい?」

 「お言葉ですが、最初のミーティングでも申し上げたとおり、ぼくは世の中を変えるんです。旧来の美容をやっていたら、世界は変わらない」

 「ふん」

 “義兄”は鼻を鳴らすとこう言った。

 「世界はそんなに簡単には変わらないよ。ぼくらはビジネスに投資しているんだ。つまりぼくらは株主だ。その株主が地方への展開を望んでいる」

 「地方から世界は変えられません。変えるのはロンドンです。まずロンドンでトップサロンになることです」

 「言っておくが君はまだ無名の美容師だ。ロンドンにはビッグネームが何人もいるぞ。アレキサンダー、レイモンド、レネー、フレディ・フレンチ……。ぼくでも知ってるそんなビッグネームと、君がこれから張り合えるとは思えない」

 ヴィダルのなかで、感情が爆発しそうになる。この人たちはなにもわかっていない。

 「同じ土俵で勝負しているつもりはありませんから。どんなビッグネームでも、ぼくの敵ではありません」

 「せっかく成功しているんじゃないか。その成功を引っ提げて、地方を制覇しよう。そこにしか未来はない」

 「未来はない、と」

 「ない」

 「断言しますか」

 「断言する」

 「地方出店が、追加出資の条件だ、と」

 「そうだ」

 「結論だと考えていいんですね」

 「ぼくらの結論だ」

 「そうですか。わかりました。残念ですが、これ以上一緒にはつづけていけませんね」

 ヴィダルは可能な限り、感情を抑え込みながらつづけた。

 「サロンの権利をあなたたちから買い取るために、あたらしいスポンサーを探します」

 

 決裂した。

 ミーティングは最悪の結果になった。

 リラは“夫”や“義兄”が発する予想外の意見に驚き、取り乱していた。

 ヴィダルは静かにミーティングの席を立った。

 握手は、求められなかった。

 

 

 さて、どうする。

 ヴィダルは緊急に対応を迫られていた。しかし、あてはない。知り合いの顔を何人思い浮かべても、出資者になってくれそうな人はいなかった。

 エレインが珍しくサロンに電話をかけてきたのは、そんなときだった。

 

 エレインは結婚後、仕事から離れていた。電話口で、なぜかエレインは興奮気味だ。

 「とってもステキなアパートを見つけたの。カーゾン・プレイスにゴージャスな邸宅があるんだけど、そのなかにアパートがあるのよ」

 快活に語るエレイン。ほんとうにうれしそうだ。そんなエレインに、出資者と決裂した話なんかできなかった。

 

 

 後日、ヴィダルはエレインとともにそのアパートを訪れた。ジョージア王朝風のまさしく大邸宅を、12世帯が住めるアパートに改造してある。エレインが見つけた部屋は10号室。もともとはその邸宅の主人の召使いが使っていた部屋だという。

 寝室。リビングルーム。キッチン。バスルームとトイレのほかに音楽を演奏できるちいさなスペースもあった。本を並べる書棚も造り付けてある。天井はちょっと低いが、独特の雰囲気がある。その空間にいるだけでヴィダルは落ち着き、ハッピーな気分になれる。ここに住んでいた人はきっと、とくべつな召使いだったのだろう。

 ヴィダルはそのアパートが気に入った。

 

 もちろん、いまはお金を使えるときじゃない。サロンの権利を買い戻す資金はないのだ。だから1日も早く、あたらしい投資家を見つけて出資してもらわなくてはならない。だが、ヴィダルは引っ越すことを決めた。

 

 なにかを変えたいと思った。サロンをあたらしくする。出資者も変わる。だったらいっそ、住居も変えてみるか。

 この決断が、やがてヴィダルの前に道を拓くことになる。

 

 引っ越してみると、そのアパートの住人たちもまた魅力的な人ばかりだった。とくに向かいの9号室の住人とはウマが合う。

 ジョン・リーズリー・プリチャード。オックスフォード大学出身のロイズ保険(※)業者だった。

 

 ある夜、そのジョンがヴィダルの部屋のドアをノックした。

 「ウォッカのボトル、ないかな。明日返すから」

 近所同士でミルクの貸し借りはよくあることだった。しかし、ジョンがほしいのはウォッカのボトルだという。ヴィダルはジョンを招き入れ、一緒に酒を飲むことにした。

 

 ビジネスの話で盛り上がった。その年はロイズ保険が巨額の利益を上げた年だった。一方、ヴィダルはビジネスパートナーと決裂して困っている。そんな話を、ふたりは夜更けまで交わした。

 

 それから3日後のことである。ジョンが電話をかけてきた。

 「君のサロンの拡張計画だけど、もう少し詳しく聞かせてくれるかな」

 

 ヴィダルはサロンをロンドンから海外へと展開していく話をした。ヨーロッパに進出し、アメリカにも出店していく。その第一歩となるのがボンド・ストリートのサロン拡張だった。

 ジョンとヴィダルは長い時間をかけてディスカッションした。そして最後に、ジョンがこう言った。

 「わかった。サロンの権利を買い取って、ぼくたちは国際的なビジネスをめざそう。女性たちをヘアスタイルの束縛から解放して、世界を変えるんだ」

 

 リラの夫との契約を解除した。彼らは出資額に、かなり上積みした利益を手にして経営から離れた。その代わりに隣人のジョンが、『ヴィダル・サスーン』の株の50%を握ることとなった。

 

 

 サロンの移転・拡張に金銭面のメドが立った。次は物件探しだ。そんなことを考えながら、ヴィダルはその日もお客の髪をカットしていた。

 

 相変わらずサロンにはお客があふれ、スタッフ全員が忙しく働いていた。

 エレベーターの扉が開いて、ひとりの女性がサロンに入ってきた。小柄な女性で、若くてオシャレだった。とてつもなく短いスカートに、ピンクのタイツを合わせている。ポニーテールの髪の上に、おもしろいかたちの帽子が乗っていた。

 

 ヴィダルは、その女性に気づかなかった。エレインからレセプションを引き継いだスタッフが応対する。するとヴィダルがヘアを仕上げたばかりの女優『ジル・ベネット』がレセプションに向かって歩いて行く。

 会計を済ませたジルは、小柄な女性の、長くて豊かなポニーテールに気づいて声をかけた。

 「まさか、あなたその髪を切る気?」

 小柄な女性は肩をすくめる。するとジルは忠告するようにこう言った。

 「おやめなさい!」

 

 小柄な女性はヴィダルの仕事を見ていた。じっと見つめていた。そしてレセプションのスタッフにこう言ったのだ。

 「今日はお金の持ち合わせがないので、また来ます」

 レセプションは答えた。

 「ありがとうございます。お名前をいただいてもよろしいですか」

 「あ、マリーです。マリー・クワント」

 レセプションは驚いた。

 「マリー・クワントって、あのバザー(※)のマリー・クワントさん?」

 「そうです」

 

 マリー・クワントがお客としてやってきたのは、その2週間後のことだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

※700スクエア・フィート

700sqf=65.1㎡=19.7坪。

 

※ロイズ保険

貿易船などの海難事故や、火災、盗難などに備えた保険を引き受ける市場と、そこで業務を行うブローカーや保険引受業者(アンダーライター)の総称。アンダーライターは当時、「無限責任」を引き受けることになっていて、事故がなければ巨富を得るが、いったん事故が起これば巨額の保険支払いが生じる大きなリスクも負っていた。

 

※バザー

1955年。ロンドンのチェルシー地区。その目抜き通り“キングス・ロード”の、マーカム・スクエアの角にできたブティック。新進ファッションデザイナーのマリー・クワントと、その夫アレキサンダー・プランケット・グリーンが共同で開店。ロンドンの若者文化の“聖地”となり、その後に巻き起こるムーブメント“スウィンギング・ロンドン”をリードするファッションを次々と生み出していった。

 

 

 

☆参考文献

 

『ヴィダル・サスーン自伝』髪書房
『Vidal Vidal Sassoon The Autobiography』PAN BOOKS

『ヴィダル・サスーン』(DVD) 角川書店

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房

『イスラエル建国の歴史物語』河合一充著 ミルトス

『アラブとイスラエル』高橋和夫著 講談社現代新書

『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書

『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著 集英社新書

『ヴェニスの商人』ウィリアム・シェイクスピア著 福田恆存訳 新潮文庫

『物語 エルサレムの歴史』笈川博一著 中公新書

『美の幾何学』伏見康治・安野光雅・中村義作著 早川書房

『美の構成学』三井英樹著 中公新書

『黄金比はすべてを美しくするか?』マリオ・リヴィオ著 斉藤隆央訳 早川書房

『図と数式で表す黄金比のふしぎ』若原龍彦著 プレアデス出版

『すぐわかる 作家別 アール・ヌーヴォーの美術』岡部昌幸著 東京美術

『ヘアモードの時代 ルネサンスからアールデコの髪型と髪飾り』ポーラ文化研究所

『建築をめざして』ル・コルビュジエ著 吉阪隆正訳 鹿島出版会

『ル・コルビュジエを見る』越後島研一著 中公新書

『ミース・ファン・デル・ローエ 真理を求めて』高山正實著 鹿島出版会

『ミース・ファン・デル・ローエの建築言語』渡邊明次著 工学図書株式会社

『MARY QUANT』マリー・クワント著 野沢佳織訳 晶文社

『スウィンギング・シックスティーズ』ブルース・インターアクションズ刊

『ザ・ストリートスタイル』高村是州著 グラフィック社刊

 

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